こんばんは。新宿区自民党の渡辺みちたか(33歳・2児の父)です。
ウェブでは渋谷のスクランブル交差点のヤフーの広告が話題ですね。3.11から八年の月日が流れようとしています。
私はこの時期が来るたびに、改めて震災直後の気持ちを思い出そうと心がけています。
3.11のとき、私は都内のIT企業で会社員をしていました。私は営業で、サポート担当とお客様の会社に2人でむかう途中の都心の地下鉄のホームで地震が起こりました。
地下鉄のホームは大きく揺れて、長い長い揺れのさなかに一人が出口の階段に向かって駆け出すと、みんなそれにつられて階段に向かって走り始めました。さほどの人数ではなかったので、パニックには至りませんでしたが、もし大混雑している朝のホームだったら押しつぶされる人が出ていたかもしれません。パニックってこういう風に起こるんだなとその時に感じました。
私も階段をのぼって地上に出ると、同じように地下や、ビルの中から人々が出てきたようで、こんなにも人がいるんだというくらい沢山の人が街に溢れていました。手元の携帯電話も不通でしたので、公衆電話の行列にならび、向かうはずだったお客様に「電車が止まってしまったので、遅れます」と連絡したところ、いや、今日はいいですよと言われて帰ることにしました。
ところが、帰ろうにも電車は止まっているので、2人で歩いて帰り始めました。途中余震があり、九段の防災倉庫?がいまにも倒れそうなくらい揺れていたのを覚えています。後で知ったことですが、すぐ近くの九段会館では天井板が落ち、東京で唯一の死者がでました。専門学校の卒業式をしていたのです。本当に胸が痛みます。
情報とは恐ろしいもので、その時はまさか東北で大きな被害が出てるとはつゆも知らず、テクテク2人で家路、ならず帰社路を急いでいました。途中なぜかアイス(ガリガリ君)を買って食べながら歩いていたり、今思うと本当にすっとぼけていました。(しかも「当たり」がでました)
ゆうに1時間以上かかって帰社すると、いつもは明るい雰囲気のオフィスが、どんよりしており、みんなそれぞれのPCのディスプレーに釘付けになっていました。ひとりの先輩からやばいよと言われて見せてもらったのが、黒い津波が街を飲み込んでいるニュースの映像だったのです。
(全然思い出したい気持ちに行きつきませんでした。その2へつづく)