渡辺みちたか(自民党・新宿区議会議員)official blog

新宿のミッチー。新宿区議会議員(自民党)。1985年12月生まれ。「渡辺ミッチー」こと渡辺美智雄・元副総理の孫。慶応義塾高等学校・慶応義塾大学・同大学院卒業。中小企業勤務、国会議員秘書を経て新宿区議会議員(2期)。会派は自民党区議団。

【プロフィール】なぜ区議会議員になったのか、なったあと区議会で何をしてきたのか【渡辺みちたか】

 2019年に区議会議員になる前は、国会議員秘書をしていて、その前はITベンチャー企業の会社員(営業職)をしていた。祖父が政治家だったので、小さいころから政治家に憧れがあり、いつかは公のために働きたいと思っていた。家族の会話でも政治の話題が普通にされる環境で育った。政治が身近な環境だったと思う。

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ITベンチャー企業のポーターズに就職する

 いよいよ就職を控えた大学生の頃、当時衆議院議員(兼、金融大臣)をしていた伯父の渡辺喜美さんに「将来は政治家を目指したいが、どんなキャリアを積めばいいか」と相談したところ、伯父から「これからの時代は、民間でのビジネス経験がないと政治家になったとしても使い物にならない」と言われ、民間企業への就活をした。ところがある大企業の説明会にいくと「うちは40代からが本番」とのことで、40代で本番なら政治家を目指すころには60歳を過ぎてしまうなと思い、若いうちから裁量をもたせてくれそうな会社に絞って就活をした。結果、ポーターズという人材ビジネス会社向けのマッチングシステムを提供している会社に入社した。ポーターズでの経験は3年間だったが、社会人としての基礎をみっちり仕込まれた。数字や目標に対する厳しい意識や、顧客が満足するサービス提供、言い出しっぺやる原則などなど。今もよく「メンタル強いね」とか、「(会議などで)よく発言するよね」といわれるが、これらはポーターズ時代に培ったものだ。強いメンタルと、言いたいことを言わないと食われてしまう(発言しない奴は意見のない奴だと思われる)環境だったのだ。

民間企業の社会的責任は「いいサービスの提供」と「納税」
都議選出馬・落選、国会議員秘書になる

 社会人になって1年が終わるころに東日本大震災が起こり、公共への思いが膨らんだ。震災直後、自分の立場でできる社会貢献とは何だろうと考えたのだが、結論としては「顧客が満足する(価格に見合った)サービス/商品を提供すること」、「利益をあげて税金を納めること」の2つだった。今でも民間企業における社会貢献はこの2つだと思っている。公共への思いと、民間企業でできる社会貢献でのギャップがある中で働き続けたが、2012年の中頃、その翌年に行われる都議選に挑戦したいと決意し、再度伯父の渡辺喜美さんに相談をしに行った。伯父は当時、自民党を飛び出して「自民党でも民主党でもない第三極」の改革政党、みんなの党を立ち上げ、意気揚々だった。伯父からは「都議選じゃなくて、来年には衆議院選挙があるから衆院選にでろ」と言われ具体的な選挙区が提示された。が、私は目に見える人たちと目に見えるまちづくりをしたいと思っていたので、お断りをし、あくまで都議選で、という話をした。この目に見える人たちと目に見えるまちづくりを、という思いは今でも変わらず、国政志向は全くない。そもそも国政志向があるなら地盤のある栃木から政治家になるよね。
 それで、伯父からは都議選なら公募だとのことで、公募から応募して、2013年の都議選への出馬が決定した。選挙区だけは希望した選挙区に既に魅力的な候補がいるということで、中野区から出馬することになった。この都議選は次点で落選し、ポーターズからはありがたくも戻ってきてもいいとオファーをいただいていたが、伯父からも「少し修行をせい」ということで伯父の秘書に転職をした。

兄とともに自民党へ 区議選出馬

 秘書に転職したはいいものの、半年ほどで化粧品会社のDHCの会長から伯父が簿外で借金をしていたことが報道され、ズッコケた。その後、みんなの党は解党、伯父は選挙で落選し、渡辺喜美事務所は1人のベテラン秘書を残して解散状態となった。これからどうするかなと思った矢先に、もう一人困った立場に置かれていた男がいた。それは私の兄の渡辺美知太郎で、兄は当時、伯父のよしみパワーで参議院議員になったものの、伯父は落選した後、一時的に自失呆然状態で全く頼りにならず、自分のまわりを固めるはずの秘書たちは伯父の古くからの秘書ばかりで身動きが取れなくなっていた。そんな兄から「地元(栃木県那須地方)重視で一からやり直したい、だから東京の事務所を手伝ってくれ」とのオファーがあった。要するに地元活動に専念したいから、私設秘書の待遇で東京事務所を一人で切り盛りしてくれという話だ。私も困っているし兄も困っているなら一緒にやるかと思いOKし、今度は兄の秘書になった。私が弟ということで、兄は遠慮なく仕事を振ってきて仕事量は多かったが、秘書という立場に加えて議員の弟ということで、会食の同席や、代理での会合出席など多くの人と交流できる「役得」もとても多かった。兄も私を大事にしてくれた。ポーターズの時もそうだったが、小さくても裁量と責任のある環境が肌に合っているようで、東京事務所は1人で大変だったがのびのび仕事をさせていただいた。

 兄は3年かけて自民党入りを果たし、政府の役職である財務大臣政務官も務めた。自民党の議員は各種選挙の応援が義務化されるのだが、2017年の都議選では、私が新宿区西早稲田に住んでいたので、参議院議員の秘書派遣という形で秋田一郎都議の応援に入った。ここで初めて新宿の自民党とご縁ができた。続く秋の解散での総選挙では東京10区(豊島区、練馬区、中野区、新宿区にまたがる選挙区)の鈴木隼人代議士の選対で活動し、新宿の議員団とのご縁を深めた。そのあと、2019年の区議選前に新宿で一人空きが出たらしいとの情報を聞き、鈴木、秋田両先生にご相談した結果、この落合の地域から区議選に挑戦する事になった。f:id:watanabemichitaka01:20230409001710j:image

 

当選。そして本会議質問ナンバーワン議員へ

 新宿区には結婚してから住んでいたとはいえ、落合地域では落下傘候補で、公認が出たのが12月末、選挙は翌年4月で、実質3か月の期間で勝ち上がるため「渡辺ミッチー(美智雄)の孫」というPRを全面的にした。政策ももちろん訴えたが、キャンペーン戦略の三本柱は「自民党新人」、「34歳」、「ミッチーの孫」だった。それで皆様にご注目いただき、何とか当選することができた。が、「ミッチーの孫」で当選して、議会で何もしなければ、これは世間でよく言われる政治家のバカ息子だよな、と思って当選後は議会活動に力を入れてきた。

 議員は議会で質問することができるが、毎回の区議会定例会で本会議場で質問を行った。その結果、4年の任期が終わってみれば合計質問時間は286分、全新宿区議中最も多く、本会議質問ナンバーワンとなった。行った政策提言は35分野に渡り、すべてではないが、提言が実施され区政を前に進められたと自負している。


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 ライフワークは環境政策(温暖化対策)で、これは議会質問のみならず日ごろから役所と意見交換をし続けている。当選した直後、地域の方から「渡辺君の専門はなんだ?」と聞かれ、「環境政策です」と答えると「きみは自民党の議員だろ?」と言われたこともあるくらい自民党の中ではマイナーな政策分野だった。が、2019年の夏に集中豪雨が多発し、一気に温暖化が注目され、その後も世界的な潮流となって新聞では「温暖化」、「気候変動」のキーワードが出ない日がなく、ついに菅総理が2050年までにカーボンニュートラルを目指すという宣言をするに至った。その前後で、私も1期生ながら自民党内で温暖化・気候変動に関する勉強会を立ち上げ、外部から講師を招き、最終的にゼロカーボン宣言を含む11項目の要望書に取りまとめた。勉強会として区に提出しようと思ったが、渡辺清自民党区議団幹事長のご厚意で、自民党として行おう、という事になり区長に提出し、ゼロカーボン宣言などはその後区も行うに至った。
 議会では小中学校入学お祝い金や地域経済対策(プレミアム商品券)など、話題になる政策から、おとめ山公園外来生物西武新宿線開かずの踏切などの地域の話題、将来的な区有施設の縮小や、所有者不明土地など地味ではあるが重要なテーマも扱ってきた。
 35分野に渡って議会で政策提言を行ってきたが、来たるの選挙戦では重点3つ絞ってアピールする。健康、環境、交通。いずれもKから始まるので「みっちーのみっつ 3K政策」としてアピールしていきたい。少し長くなりすぎたので、3K政策の個々についてはそれぞれの記事に譲りたい。